Vol.167フィールドワーク教育の可能性①
文化人類学的視点から

2019.12

はじめに

 アクティブラーニングの重要性が声高に叫ばれはじめてから、教育界には近年「課題解決型教育」やPBL(Project Based LearningもしくはProblem Based Learning)といったワードが頻出するようになってきた。

 これらは、知識を一方的に伝達していくような「預金型=銀行型教育」(注1)や、暗記をベースとし、数値化することのできる「認知能力」への極度の偏りを修正し、子どもや学生たちの「主体性」に重きを置いていこうという、教育理念の大きな転回から生まれた動きである。

 こうした動きのなかで、座学だけではなく、具体的な世界(野=フィールド)へと教育の場を拡張させていこうという動向がみられる。それらは「フィールドワーク教育」と一括できるものだ。

 ここで用いられているフィールドワークという手法は、20世紀初頭から文化人類学という学術領域で提唱され発展してきたもので、「フィールド科学」の名のものとに、その方法論や理念が鍛錬されてきたものである。

 一方で、こうした手法を取り入れつつも、具体的な教育現場ではフィールドワークの持つ最も重要な側面が生かされているとは言い難い。
 いやむしろ、求められている課題解決型の能力というものの限界が露呈してきているとも考えられる。
 本コラムでは、現在PBL教育において大きな位置を占めているフィールドワーク教育に焦点を当て、文化人類学的視点からその問題や可能性を見出していこうと思う。

「課題解決」が秘める課題

 「子どもたちに、特定の社会課題に向き合ってもらおう。そこから問題を解決する視点を学び取ってもらおう」という発想。
 一見、子どもたちの主体的な取り組みや考える力を養うことのできるような手法と捉えられがちな「課題解決型教育」。しかしそこで取り扱われる課題は、事前に想定されたものを一方的に与えてはいないだろうか。

 「過疎化が進む農村」「途上国における貧困」「人通りが少なくなったシャッター商店街」など、マスメディアを含め一般的に語られている「課題」や「問題」をあらかじめ設定し、それらしい解決の方法を見出そうとする子どもたち(もしくは、そもそも興味を示さない子どもたち)。
 こうした予定調和的なフィールドワーク教育がなされていないだろうか。
 そもそもそれらの課題は、子どもたちの生きるリアリティに基づいた自己省察を導くものだろうか。この「課題」そのものを、彼らの生きる世界から、彼ら自身がどのように設定し、その設問自体がどのくらい有効なのかを何度も再構成してく能力こそが「考える力」である(課題発見型能力といってもいい)。
 事前に与えられた課題に対する子どもたちの「まじめな(もしくは不承不承の)」取り組みを、素直に「主体的」「能動的」と言うには無理があるだろう。

 PDCAサイクル(注2)に対する批判にも現れているように、出発点であるP(Plan=計画)そのものがどれほど有効なものであるかを審判する力こそが、想像力/創造力の源泉となる。また、すぐに解決方法の選出に急ぐのではなく、その課題とされるものが、どのような複雑な社会事象から生み出されているのか、その前提を掘り起こし、自身の生き方や社会のあり方そのものの再考を迫ることこそが、思考力を高めることにつながる。

 人類学においては、安易な課題設定と解決策は世界把握・理解には無益であり、むしろそれらが表面化する前提となる社会構造や時代背景を包括的に(全体論的に、ホリスティックに)捉えることから始める指導を受ける。ここが、フィールドワーク教育の最も重要なポイントなのである。

(注1)子どもの頭脳を空っぽの預金口座と想定し、そこに知識を貯蓄していくという考え方に基づいた知識授与型の教育方法。
(注2)PDCAサイクルとは、計画(Plan)、実行(Do)、評価(Check)、改善(Action)のサイクルを機能させ、実務に生かそうとする考え方。

 しかし、計画の立案がそもそも表層的で、それを支える深い洞察や本質看守能力が低い場合は、このサイクルがそもそも機能しなくなる。
 近年ではこうした問題に対して「OODAループ」が提唱されている。

 これは、観察(Observe)、状況判断(Orient)、意思決定(Decide)、実行(Act)のループを提唱するものであり、「Plan」に至る前の深い洞察を導く観察能力や、具体的な社会状況における柔軟な対応能力に重きを置いたもので、人類学的な教育法に近いものと考える。

東京学芸大学 人文科学講座 准教授 小西公大
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