Vol.168フィールドワーク教育の可能性②
「問い」を生み出すための基本的姿勢

2019.12

 前回は、「課題解決型」教育における学びのデザインが、予定調和的になってしまうことに対する問題を指摘した。事前に課題を設定し、それに対する解決方の導出に生徒たちを即座に誘導することは、まとめると次のような落とし穴を抱え込むことになる。

① 最も思考力を鍛えることのできる「問いの立て方」へのプロセスを失ってしまう
② 外発的な課題設定は、それに取り組もうとする生徒たちのリアリティに繋がらず、自らのものとして引き受けようとする動機付けを失ってしまう
③ そのため、そこで得られる知識や知見は、生徒たち自身が生きる世界との創造的連関を生み出しづらく、断片化された「死んだ知識」となる危険性がある

 これらを回避するためには、生徒たちが自らのリアリティに基づいた内発的な「問い」を発することができる学習デザインが必要となるが、それには事前の情報収集やその吟味が必要となるだろう。また、そこで発せられた「問い」の有効性(「ふさわしい問いかどうか」)に関する生徒同士の、あるいは教員や先輩等との意見交換は、自身の認識のズレや独自性を多様な他者との関係のなかで浮き彫りにしていく、大きな学びにつながることが期待できる。

 ここで大急ぎで付け加えなければならないのは、こうして構成される「事前の問い」はあくまでも暫定的なものであり、実際のフィールドワークの過程でズラしたり、修正したり、取り下げて新たな問いに移行したりすることを許容する、いやむしろ推奨するべきものでさえあるということだ。事前の問いの設定は、あくまでも入り口を開くための便宜的なものでしかない。生徒たちは「野=フィールド」に入り、多様な論理や意志の絡み合った複雑な現実に直面することになる。したがって、その時/その場所でしか得ることのできない体験をもとにした「新たな問い」が開かれていくことにこそ、フィールドワーク教育の醍醐味がある。人類学においては、フィールド実践のなかで、調査者のこれまでの他者認識を解体しながら、問いそのものがどのように「適切なもの」として再構築されていったのか、そのプロセスを最重要視する。「探究」とは本来このようなものであろう。外発的な「探究されるべき課題」は、可能な限り退けておく必要がある。

 また、このような柔軟な問いの立て方に関する学習デザインには、「偶発性」をどこまで受け入れるか、という重要な問題が含まれている。次世代の「知」のあり方には、不確実で不透明な世界を生き抜く知的な基礎体力という意味合いが込められており、フィールドとはこうした不確実性と直面する場である、という含意がある。つまり「正解」や「解決策」のような必然性に重きを置く学びはフィールドワーク教育とは相性が悪く、むしろ「正解のなさ」「簡単な解決策のなさ」へと導いていくことこそが、教師の重要な役割であると言っていい。このマインドが共有されていない限り、PBLもフィールドワーク教育も、従来の「社会科見学」の域を出ることができないと考える。その意味で、教員とは「教える」存在ではなく、「学び」をデザインし、生徒たち自身が学びのプロセスを進んでいく手助けをするファシリテーターとなるべきものである。

東京学芸大学 人文科学講座 准教授 小西公大
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